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浦和地方裁判所 昭和57年(ワ)384号 判決 1987年3月25日

原告

根岸重浩

右訴訟代理人弁護士

田中重仁

赤松岳

被告

社会保険診療報酬支払基金

右代表者理事長

河野義男

右指定代理人

田中澄夫

外四名

主文

一  被告は原告に対し、金一万七七二〇円及びこれに対する昭和五七年四月一六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金一七九万〇〇六六円及びこれに対する昭和五七年四月一六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  担保を条件とする仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  原告は医師であるが、肩書地において聖母病院を開設し、同病院は、その申請に基づき埼玉県知事から健康保険法(以下、「健保法」という。)四三条三項一号、四三条の三第一項の保険医療機関の指定を受け、原告もまた、保険医療機関たる右病院で健康保険診療に従事する保険医として、健保法四三条の二及び五に基づき右知事の登録を受け、保険診療に従事している者である。

2  被告は、政府もしくは健康保険組合、市町村もしくは国民健康保険組合または法律の規定により組織された共済組合(以下、「保険者」という。)が法律の規定に基づいてする療養の給付(以下、「保険診療」という。)を担当する者(以下、「診療担当者」という。)に対して支払うべき費用(以下、「診療報酬」という。)の適正迅速な支払及び診療担当者から提出された診療報酬請求書の審査を行うことを目的として社会保険診療報酬支払基金法(以下、「基金法」という。)によつて設立された特殊公法人である。

3  原告と被告との間には、被告から原告に支払われる聖母病院の診療報酬の支払時期について、原告の請求した当月分を翌々月末日限り支払うとの合意が存在する。

4  原告は、聖母病院がした保険診療の昭和五六年二月分の診療報酬を被告に請求し、被告は同月分の診療報酬の支払確定額を金三六九万一四三三円と決定した。

5  しかるに、被告は原告に対し、右金額のうち金一九〇万一三六七円を支払つたが、残額金一七九万〇〇六六円の支払をしない。

6  よつて、原告は被告に対し、診療報酬請求権に基づき、未払診療報酬金一七九万〇〇六六円とこれに対する履行期の後である昭和五七年四月一六日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

請求原因事実は、すべて認める。

三  抗弁

(不当利得返還請求権による相殺)

1 原告は、別紙一覧表の患者名欄記載の各患者(以下、「本件患者」と総称する場合がある。)に対し、同診療月欄記載の期間に同傷病名欄記載の傷病について診療もしくは投薬をなしたとして、被告にその診療報酬請求をした。

2 被告は、原告に対し、基金法の規定に基づいて、自己の名で、同表の支払額欄記載の金額を、同表の支払年月日欄記載の年月日に、埼玉信用金庫本庄支店の聖母病院の口座に振込む方法で支払つた。その総額は金一七九万〇〇六六円である。

3 しかしながら、診療報酬請求権は、診療担当者が健保法及び「保険医療機関及び保険医療養担当規則」(以下、「療養担当規則」という。)の定めに従つて、療養の給付を行つたときに発生し、その額は予め定められた計算方法に基づくものであるところ、原告が本件患者に対してした右診療及び投薬は、いずれも別紙一覧表の不正・不当の理由欄記載の理由により、健保法及び療養担当規則の定めに従つた療養の給付に該当しないか、その計算方法に誤りがあるから、診療報酬とは認められないものである。

右不正・不当の理由欄記載の理由をふえんすれば、次のとおりである。

(一) いわゆる出張診療について

(1) 医療法七条一項、健保法四三条、同条の二、三、療養担当規則二〇条一号ハ等の規定の文言及び趣旨を総合すれば、保険医療機関たる病院については、適正な保険医療の確保を図るため、医療上の要件を充足した機関の中から健保法上の指定を行つているのであるから、そうした保険医療機関で医療行為を行うことが医療行為の適正さを担保するうえで原則として必要であると考えられるが、その例外として、特定の患者の求めに応じ、都道府県知事の登録を受けた保険医が診療上必要があると認めて行う往診については、実際上の必要から、保険医療機関が指定を受けた場所以外において保険診療を行うことができると考えるのが相当であり、したがつて、右特別な場合を除いては、右指定を受けた場所以外における診療は保険診療とは認められない。

(2) ところで、原告は、埼玉県本庄市南本町四六一五番地において、聖母病院の名称で病院を開設して前記指定を受けているところ、原告が、本件患者中、宮田恵子、久保田勝治及び酒井絵美子を除くその余の患者に対してした同表の診療月欄記載の期間における診療行為は、いずれも、原告が右病院外の場所である株式会社本庄食品(以下、「本庄食品」という。)、東鐘繊維工業株式会社(以下、「東鐘繊維」という。)及び株式会社サンワ(以下、「サンワ」という。)の各事業所に定期的に赴き、昼休み時間を利用して受診希望者を集めた上でしたものか、従業員からの依頼により診療に赴いた場合でも、その依頼の理由は依頼者の勤務上の都合であつたから、例外的に保険診療と認められる往診に該当せず、したがつて、いわゆる出張診療として、保険診療とは認められないものである。

(二) 無診察投薬について

(1) 医師が患者に対する診療を行うに当つて、自ら患者を診察したうえ、その診断に基づき、適切・妥当な治療を行うべきことは、医療の本質上当然のことであり、(医師法二〇条、療養担当規則一二条参照)、また、同規則二〇条によれば、投薬は診療の一内容とされているのであるから、保険診療としての投薬については、投薬する保険医の診察が必要であり、これを欠く投薬は、いわゆる無診察投薬として保険診療とは認められない。

(2) ところで、本件患者中、宮田恵子及び久保田勝治に対し原告がした同表の診療月欄記載の期間中における各診療行為は、診察を行わずにした投薬であつて、いわゆる無診察投薬に該当するから、保険診療とは認められない。

(三) 初診料請求の誤りについて

(1) 診療担当者が患者に対し一個の傷病で診療を継続中、右患者が新たに他の傷病を併発した際には、新たな傷病について診療を行つた場合でも、新たな傷病の診療につき初診料の診療報酬は認められないのである。

(2) ところが、原告は、本件患者中、酒井絵美子について、昭和五五年一月八日「顔面発赤」の傷病名で最初に診療し、同月二五日右「顔面発赤」の診療に併せて「臀部びらん」の診療をしている。したがつて、「臀部びらん」に対する診療については初診料を請求できず、再診料しか請求できないにもかかわらず、これができるとの前提で、原告は初診料を請求し、被告は、これを支払つた。そして、患者酒井絵美子については、初診料と再診料との差額は金八二六円であるから、右差額分は診療報酬とは認められない。

結局、原告が、被告から診療報酬の名の下に受領した同一覧表の支払額欄記載の金額の合計金一七九万〇〇六六円は、原告が法律上の原因なくして利得した金員というべきである。

4 そこで、被告は原告に対し、昭和五六年四月二〇日ころ到達の書面をもつて、前記金一七九万〇〇六六円の不当利得返還請求権を自働債権とし、原告の被告に対する昭和五六年二月分の金三六九万一四三三円の診療報酬請求権を受働債権として、対当額で相殺する旨の意思表示をした。

四  抗弁に対する認否及び反論

1  抗弁1、2の事実は認める。

2  同3の事実のうち、冒頭の事実は否認する。同(一)の事実については、(2)のうち、原告が肩書地で聖母病院を開設し、保険医療機関の指定を受けていること、原告が被告主張の本件患者らに対しその主張の期間中にした診療行為がいずれも右患者らの勤務する会社の事業所においてなされたものであることは認めるが、その余の事実は否認する。同(二)の事実は否認する。同(三)の事実については、(2)のうち、原告が昭和五五年一月八日酒井絵美子を「顔面発赤」で診療し、同月二五日同人を「顔面発赤」と「臀部びらん」で診療したこと、原告が右「臀部びらん」についても初診料を請求し、被告からその支払を受けたこと及び酒井絵美子についての初診料と再診料の差額が金八二六円であることは認めるが、その余の事実は否認する。

3  同4のうち、被告がその主張の日に被告主張の請求権を自働債権とし、原告主張の請求権を受働債権として対当額で相殺する旨の意思表示をしたことは認める。

4  原告の反論

(一) いわゆる出張診療について

原告が、出牛みち子、田端深雪、田中庸子(いずれも東鐘繊維の従業員)、新井八重子、丸山キク、粂原幸子、山田ます、鈴木武子、関口トミ、今井文江、境野三千子、田島春子(いずれも本庄食品の従業員)、藺草三枝子(サンワの従業員)らに対し診察治療したのは、いずれの場合も、右患者を含む特定の者からの依頼を受けて各会社へ往診に赴いたことによるものであり、その際、他の患者から診療を求められたので、これに応じて診療をしたものである。したがつて、特定の患者からの依頼がないのに、原告が目ら進んで各会社事業所へ出張して患者を集め、その診療を行つたというものではないから、右患者らに対する前記診療行為は、いわゆる出張診療に該当しない。

(二) 無診察投薬について

投薬の前提としての診察には、直接患者に対する問診・視診・聴打診のほか、保護者、家族に対する問診も含むものであり、とりわけ患者が幼児もしくは老人で慢性疾患患者である場合には、保護者、家族に病状を尋ねたうえ、これによつて投薬することも許される。

(三) 初診料請求の誤りについて

酒井絵美子の顔面発赤の疾病は、一旦治癒したが、その後、同女は同一月内に同一疾病で罹患したため、原告に対し、診療行為を求めて来院したものであり、したがつて、昭和五五年一月二五日にした原告の同女に対する「顔面発赤」の治療行為は、初診であるから、初診料を請求しうるものである。

五  原告の主張

1  被告は、抗弁として既払の診療報酬金につき不当利得返還請求権を有するとして、原告が請求する昭和五六年二月分の社会診療報酬請求権との相殺を主張する。

しかし、既払の診療報酬を、それが保険診療に基づかないものであるとして、不当利得返還を求める場合には、各患者に対してなされた個々の診療行為を特定して、それが保険診療と認められないものであると主張すべきである。けだし、診療報酬請求権は個々の診療行為につき発生するからである。しかるに、被告は、抗弁において、各患者にかかる既払診療報酬金を一か月毎にまとめて主張し、各患者毎の個々の診療行為を特定していないから、被告の抗弁はそれ自体失当というべきである。

2  被告は、自働債権として主張する不当利得返還請求の要件事実につき、「法律上原因がないこと」の主張、立証責任は原告が負うべき旨主張するが、右主張は失当である。すなわち、

(一) 右要件は、不当利得返還を求める側で主張、立証すべきが当然であるのみならず、本件において、被告は原告に支払つた診療報酬について不正、不当があるとしてその返還を求めているものであり、しかも、被告は埼玉県当局の強大な権限を利用して患者実態調査を実施し、また、原告にカルテ等の資料の提出を命じて監査したうえで、一旦支払つた診療報酬の返還を求めるべく相殺したのであるから、被告は右診療報酬につき法律上の根拠のないことを主張、立証することが十分可能である。

(二) また、本件において、被告が主張する不当利得返還請求は、いわゆる出張診療、無診察投薬、再診療を初診療としてした請求の誤り等原告に支払済の診療報酬の中に請求できないものが含まれていたことを立証すれば足りるのであり、それ以外の療養担当規則適合行為がいかなる時期にも存しなかつたことを被告がすべて立証することまでは要求されていないのであるから、右要件の立証責任を被告に負わせることがいわゆる「悪魔の証明」を課することにはならない。

(三) さらに、被告は、原告との間で被告主張の不正診療報酬について立証責任変更の合意があつた如く主張するが、右合意なるものは保険医取消の権限を背景にして不公正になされたもので到底是認できないばかりでなく、そもそも被告主張のいわゆる出張診療等が保険診療報酬の支払対象となりうるかどうかは、療養担当規則の法的評価、解釈の問題であるから、右合意によつて原告がその適合性を明らかにすべき性質のものではない。

六  被告の主張

1  保険診療報酬請求権は、保険医療機関すなわち診療担当者が健保法及び療養担当規則に適合した療養の給付を行つた場合に発生すると解され、したがつて、診療担当者は、診療報酬請求権を行使するに当たり、その診療行為が同法及び規則に適合していることを主張、立証しなければならず、また、一旦その診療行為が被告の審査により前記法及び規則に適合するものとされ、その診療報酬の支払を受けた場合でも、その後、診療行為が右規則等に適合していないものとして、被告からその返還を求められた場合には、その診療行為が右規則等に適合してなされたものであることを主張、立証しない限り、既払報酬を不当利得として返還すべき義務を免れないというべきである。すなわち、

(一) 不当利得返還請求権一般の問題として、利得が法律上の原因に基づかないことを、請求者において主張立証しなければならないとすると、請求者は、理論的には、あらゆる法律上の原因がいかなる時期にも存在しなかつたことを主張、立証しなければならず、それは請求者にいわゆる「悪魔の証明」を課すことになり妥当でない。

(二) また、診療行為については、専ら、それが診療担当者の支配領域で行われ、被告や保険者はこれに関与していないのである。そして、被告は診療報酬の迅速適正な支払を使命としており、その支払に当つて、通常は診療担当者から提出された診療報酬請求書とこれに添付された診療報酬明細書を審査するのみで診療行為を逐一具体的に把握して支払を行うわけではない。他方、診療担当者にとつて、診療行為は自ら行つた行為であり、同人がこれを最もよく認識し得る立場にあるうえ、診療担当者は、医師法二四条により、診療行為の内容を明らかにするために診療録の記載を義務づけられており、いつでも診療行為の適正さを具体的に主張立証することができる態勢にある。

したがつて、原告は、別紙一覧表の支払額欄記載の支払額につき、その原因となる診療報酬請求権を取得したこと、すなわち、原告が療養担当規則等に適合する診療行為をしたことを主張立証すべきである。

2  仮に、右主張が認められないとしても、本件患者のうち宮田恵子、久保田勝治及び酒井絵美子を除くその余の者に対する診療行為については、昭和五六年二月一三日埼玉県知事が原告に対してした健保法四三条の一〇の監査の際、原・被告間において、右患者らについて既に原告に支払われた診療報酬は一括返還したうえ、後日原告から被告に対し再請求するとの合意が成立した。したがつて、右約定により、原告は、右各患者に対して、同表の診療月欄記載の期間にした診療行為については、それが療養担当規則等に適合するものであることを自らの責任で明らかにすべきであり、それを明らかにできないことによる不利益は、原告自らが負担すべきである。

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因事実は、当事者間に争いがない。

二次に、抗弁について判断する。

1  被告が原告の診療報酬請求に応じて、別紙一覧表の支払年月日欄記載の年月日に同支払額欄記載のとおり合計金一七九万〇〇六六円の金員を支払つたこと、被告がこれにつき不当利得返還請求権を有するとして、その主張のころ原告の被告に対する昭和五六年二月分の診療報酬請求権と対当額で相殺する旨の意思表示をしたことは、当事者間に争いがない。

2  そこで、まず、被告主張の不当利得返還請求権の存否の判断に先立つて、原、被告双方の訴訟法上の主張について検討する。

(一)  原告は、被告の不当利得返還請求権に関する主張は、各患者にかかる既払診療報酬を一か月毎にまとめ、個々の診療行為を特定していないから、主張自体失当であると主張する。しかしながら、本件において被告が主張するところによれば、被告は、別紙一覧表の支払年月日欄記載の日に診療報酬として原告に支払つた同支払額欄記載の金員は、原告が同診療月欄記載の月中に同患者名欄記載の本件患者の同傷病名欄記載の傷病名につき原告が保険診療したとして支払われたものであるが、右診療は同不正・不当の理由欄記載の理由により法律上の原因に基づかないものであるから、原告の不当利得になるとして返還を求めているものであるところ、本件における不当利得返還請求は原告が被告に対し、新たに診療報酬の請求をする場合とは異り、支払済の診療報酬について、それが法的根拠がないことを請求権発生の原因とするものであるから、被告が診療月と患者と傷病名及び不正・不当の理由を明らかにすることによつて法律上の原因のないことの要件事実は充足されると考えられる。また、本件において、診察日毎に当該診療の不正・不当を明らかにしないことにより原告の攻撃防禦方法に支障をきたす事情も認められないから、右の点に関する原告の主張は採用することができない。

(二)  原、被告双方は、不当利得返還請求権の要件事実のうち、「法律上の原因のないこと」の主張、立証責任の負担について縷々主張を展開するが、本件において、被告は既払診療報酬の支払が法律上の原因のないものであることを具体的に主張、立証しているのみならず、本件において取調べた証拠によつて右の主張事実の存否の判断が可能であること後記のとおりであるから、右の点に関し、当裁判所の見解を示す実益ないし必要性はないと考える。

3  進んで、被告が原告の診療報酬請求に応じて支払い、原告が受領した金一七九万〇〇六六円について、法律上の原因の有無を検討する。

ところで、原告が聖母病院を開設し、同病院がその申請に基づき埼玉県知事から保険医療機関の指定を受け、また、原告が保険医として登録を受けて同病院の保険診療に従事していることは前記のとおりであり、健保法によれば、医療機関は、その申請に基づき、都道府県知事の指定によつて保険医療機関とされるが(同法四三条三項一号、四三条の三第一項)、右の法律関係は、国の機関としての都道府県知事が保険医療機関に対し療養の給付をなすことを委託する旨の公法上の準委任と解される。そして、保険医療機関は、命令の定めるところにより、患者に対する療養の給付を担当し、その診療に当らなければならないと規定されており(同法四三条の四第一項、四三条の六第一項)、右規定に基づいて療養担当規則が定められ、療養の給付の範囲が法定されているのである(同規則一条)。そして、保険医療機関が療養の給付を行つたときは、療養に要する費用を保険者に請求することができるが、右の費用は厚生大臣の定めるところにより算定するものとされている(健保法四三条の九第一、二項)。

右法及び規則の定めによれば、保険医療機関は、右の定めに適合した療養の給付を行つたときに、前記準委任の趣旨に従つた事務処理をしたものとして、診療報酬を受け得るものというべきである。

4  右の見地に立つて、原告が別紙一覧表の診療月欄記載の期間に、本件患者に対してした療養の給付が健保法及び療養担当規則に適合していたかどうかについて、順次検討する。

5  いわゆる出張診療について

(一)  <証拠>によれば、保険医の行う保険診療は、原則として、都道府県知事が保険医療機関として指定した病院もしくは診療所において行なわれる診療行為をいい、例外として、自己の取り扱う患者の病状が重篤であるとか、緊急を要するとか、あるいは患者の移動が困難である等の事情により、必要があつて行う往診のみが保険診療として認められること、それ以外の診療例えば、定期または不定期に事業所に赴き被保険者の診察をするいわゆる出張診療、巡回診療はもとより、特定の患者の求めに応じてした必要性のある往診の際に、臨時に他の患者を診る場合においても、他の患者について往診の必要性があるのでなければ後者の臨時診療は保険医療として認められないとの行政上の解釈運用がなされてきたことが認められる。しかして、往診についての右のような解釈運用は、健保法の規定(例えば、四三条、同条の二、三、五、七、一〇、一二、一三等)及び療養担当規則の規定(例えば、二条、一二条ないし二〇条等)の趣旨に照らせば、適法かつ概ね妥当なものとして是認されうるが、若干補足が必要であると考える。すなわち、往診は、療養担当規則二〇条一号ハが規定するように、その必要があるときになされるべきものであり、その必要性の判断は、保険医において、診療を求められた患者の年令、病状等当該事案の個別的事情に応じて、当時における医学常識及び社会通念に照らして合理的に行われるべきものである。そして、往診を要する患者の病状は時々刻々変化することが多く、治療行為を有効ならしめるためには、保険医の早期にして、適切な診断及び治療行為が不可欠であるから、右必要性の判断は第一次的には当該保険医の合理的な裁量が尊重されなければならない。しかし、右の点に関する保険医の判断が医学上の常識及び社会通念に基づく合理的な裁量の範囲を明らかに越えていると認められる事情がある場合には、健保法上の往診と認めるべきではないというべきである。けだし、保険診療は自由診療と異り、健保法及び療養担当規則等の法令に適合した診療方針に従つて保険医療機関において前記公法上の準委任事務を忠実に履行するよう行われるべきものであり、また、保険診療に一定の制約を設けることは、保険診療の財政上の過大負担を避け、濫診濫療の弊を防止する見地からも必要であると考えられるからである。

(二)  しかして、本件患者中、新井八重子、丸山キク、粂原幸子、山田ます、鈴木武子、関口トミ、今井文江、境野三千子、田島春子(以上、本庄食品勤務)、出牛みち子、田端深雪、田中庸子(以上、東鐘繊維勤務)、藺草三枝子(サンワ勤務)の同一覧表の診療月欄記載の診療月に、右各人に対し原告がした診療行為がいずれも右各人が所属する事業所において行なわれたことについては、当事者間に争いがない。

そこで、前項において説示した見地に照らして、聖母病院以外の場所でされた右各診療行為が保険診療と認められる往診に該るかどうかについて検討する。

(1) <証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。すなわち、

(イ) 原告は、肩書地において聖母病院を開設し、埼玉県知事から保険医療機関の指定を受け、自らも同病院で保険医として右知事の登録を受けている者であるが(この事実は当事者間に争いがない。)、自ら、もしくは同病院の他の保険医(以下、いわゆる出張診療の判断に限つては、便宜、他の保険医も原告と呼称する。)において、本庄食品については昭和四五年ころから昭和五五年一月ころまでの間、東鐘繊維については、昭和四五年ころから昭和五四年一二月ころまでの間、サンワについては、昭和五四年一月から同年一二月ころまでの間、右各会社事業所内の事務所、更衣室兼食堂もしくは会議室などに出向いて各会社に勤務する従業員に対し診療行為を行つた。

(ロ) 原告は各会社から従業員の健康管理を依頼されていたので、会社もしくは従業員の依頼に基づいて、一か月あたり数回の割合で各会社事業所へ診療に赴いていたが、その際には、職場班長等から、原告が出張して診療するから健康状態が悪い者は診て貰うようにとの連絡がなされるのが常であつた。

(ハ) 原告が右各会社に出張して診療する時間は概ね会社の昼休み時間であつたが、これは、昼休み時間中の診療が会社の業務作業能率を低下させることがなく、従業員の便宜にも合致するものであり、その旨の依頼が会社及び従業員の双方からあつたためである。

(ニ) また、原告が右三会社で診療した前記(二)の患者は、後記(2)で個別に検討する三例を除いては、いずれも平常通り出社し、診療後も勤務に服しており、しかも診療の対象となつている傷病名は、別紙一覧表の不正・不当の理由欄記載の「出張診療」に対応する傷病名欄記載のとおりであつて、例えば、坐骨神経痛、気管支炎、更年期障害等いずれも慢性的疾患を窺わせる類のものが殆んどであり、また、右三例を除いて往診料の請求もなされていない。

大要以上のとおりに認められ、前掲証拠中右認定に抵触する部分は措信し難く、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(2) 次に、成立に争いのない甲第一一号証(今井文江の診療録)及び原告本人の供述によれば、昭和五四年六月九日午後三時過ぎころ原告が当時三九才の今井文江を往診したこと、同人は昼に笹餅を食して下腹部痛、悪心、嘔吐の症状を起していること、同人は往診をうけた後、聖母病院に入院し、点滴注射をうけたことが認められ、前顕乙第三七号証(昭和五四年六月分の同人の診療報酬明細書)によれば、右今井につき二キロメートル一五〇点の往診料の請求がなされていることが認められる。他方、成立に争いのない甲第一二号証の一(境野三千子の診療録)によれば、右今井と同じ診療日に当時四八才の境野三千子(同人と右今井とが職場を同じくしていたことは前記のとおりである。)についても原告は往診をしていること、同人の疾病は下痢で三八・二度の発熱を伴つていることが認められ、前顕乙第三八号証(昭和五四年六月分の同人の診療報酬明細書)によれば、右境野につき右今井と同様の往診料が請求されていることが認められる。

また、前顕甲第一二号証の一には、原告が右境野について昭和五四年七月二五日頻尿、排尿痛のために往診した旨の記載があるが、往診の必要性を認めるに足りる証拠がない。しかるに、前顕乙第三八号証(昭和五四年七月分の診療報酬明細書)には、二キロメートル一五〇点の往診料の請求がなされていることが認められる。

(3) 右認定の事実によれば、右(2)で個別に検討した、今井文江及び境野三千子に対して原告がした昭和五四年六月九日の往診及びそれに引き続く診療行為を除き、原告が三会社事業所に赴いてした診療行為(右境野に対する同年七月二五日の診療分を含む。)は、前記認定の患者の傷病名から窺われる病状、診療の意図、態様に照らせば、被告主張のいわゆる出張診療に当ると推認するのが相当であり、したがつて、往診の必要があつたものとは到底認められない。

これに対し、昭和五四年六月九日、原告が今井文江及び境野三千子の勤務する事業所に赴いて右両名に対してした診療については、右両名につきそれぞれ前記のような症状があり、それらはいずれも食中毒様の症状であつたことに鑑みれば、往診の必要性が認められ、右往診に引き続いて行なわれた診療行為も保険診療として肯認される(なお付言すれば、今井文江に見られた嘔吐の症状は、医師による緊急措置を施すことなく自動車で病院に搬送すれば、更に症状が増悪することが予想されるところであり、右境野についても、右今井ほどではないが、当時下痢、発熱の症状があつたものであるから、同様に考えるべきである。)。

(4) そこで、次に右両名について保険診療と認められる右六月九日分の保険診療報酬額を算定する。

(イ) 今井文江について

同人の六月九日分の診療報酬については、前顕乙第三七号証(同人についての診療報酬明細書)と前顕甲第一一号証(同人の診療録)とを対照して調べてみても、診療・投薬等に要した的確な点数を算出することができないので、同日以外の診療及びその報酬と明らかに認められる部分をできるだけ選別、特定し、これを右六月分の診療報酬から控除するという方法をとらざるを得ない。そして、右証拠と弁論の全趣旨によれば、昭和五四年六月中、原告は右今井に対し、四日、九日、一四日、一六日、一八日、二五日、三〇日の七回診療を行つていること、同月分の診療報酬明細書によれば、別紙対比表の診療報酬明細書欄のうち、「投薬・注射等」記載のとおりの項目に基づいて「請求点数」の請求がなされ、その合計点数は二四三九点となつていること、そして、右「投薬・注射等」の記載と明らかに符合する同診療録のそれは、同表の診療録欄の「投薬・注射等」の記載のとおりであること、右両者を対比すると、同表の「対比の結果」欄記載のとおり、六月九日以外の診療点数と推定されるものは一二七三点となることが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

右認定の事実によれば、前記二四三九点から右認定の一二七三点を控除した残りの一一六六点が六月九日の診療報酬点数と推測されるのである。

(ロ) 境野三千子について

前顕甲第一二号証の一(同人の診療録)、同乙第三八号証(同人についての診療報酬明細書)に弁論の全趣旨を総合すれば、原告が右境野に対し昭和五四年六月九日保険診療をした内訳は、再診料(五六点)、往診料(一五〇点)、投薬料(コリオパン6T、コンビペニックス6C、アドソルビン7.0g計三八八点<97×4>)、調・処料(一二点)であることが認められ、これに反する証拠はない。

右認定の事実によれば、同人に関する六月九日分の診療報酬点数は、六〇六点ということになる。

右によれば、右両名の昭和五四年六月分の診療報酬請求の合計五五三八点(この事実は前顕乙第三七、第三八号証によつて認められる。)中合計三七六六点は診療報酬とは認められないが、その余の一七七二点は診療報酬と認められるというべきである。

ところで、診療報酬支払事務においては、請求は点数をもつてされ、その点数は、一点当り一〇円として計算される運用であるから(この事実については当事者間に争いがない。)、右両名の昭和五四年六月分の診療報酬として被告が原告に支払い原告が取得した金五万五三八〇円中前記認定の三七六六点に対応する三万七六六〇円はその利得につき法律上の原因を欠く結果原告の不当利得となるが、同一七七二点に対応する金一万七七二〇円は不当利得になるとはいえないものである。

(三)  以上によれば、原告が宮田恵子、久保田勝治及び酒井絵美子を除く本件患者らに対してした診療行為につき支払を受けた金員のうち、前記認定の今井文江及び境野三千子に関する昭和五四年六月分の報酬金中金一万七七二〇円を除く部分は、いずれも健保法、療養担当規則に適合しない診療行為に基づいて支払を受けたものであり、原告が利得したその金員は法律上の原因を欠くものというべきである。

6  無診察投薬について

(一)  医師は、患者に対し、治療上薬剤を調剤して投与する必要があると認めた場合には、原則として、患者または現にその看護に当つている者に対して処方せんを交付しなければならないが(医師法二二条)、右処方せんを交付するについては、医師は、自ら患者を診察しなければならず(同法二〇条)、さらに保険診療についても、保険医の診療は、一般に、医師または歯科医師において、診療の必要があると認められる疾病または負傷に対し、適確な診断をもととし、患者の健康の保持増進上妥当適切に行なわれなければならない旨規定され(療養担当規則一二条)、投薬は診療の一内容とされている(同規則二〇条)等のことを総合して考慮すれば、保険医の診察がなされないでされる投薬(処方せんの交付)は、保険診療とは認められないことが明らかである。

(二)  そこで、本件患者のうち、宮田恵子及び久保田勝治に対し、同表の診療月欄記載の各期間に投薬した診察行為が、保険医の診察なくして行なわれたものであるかどうかについて検討する。

(1) <証拠>を総合すれば、本件患者中、宮田恵子は、別紙一覧表の同人の診療月欄記載の期間に受けたとされる診療につき、原告を含む聖母病院の医師から一度も診察を受けたことがなく、原告が宮田恵子の勤務する会社(東鐘繊維)に赴き、同社の他の従業員を診療した際に、宮田恵子が同僚に依頼して数度原告から薬剤の供与(処方)を受けたのみであること、本件患者中、久保田勝治もまた、昭和五二年ころ原告から診療を受けたことはあつたものの、その後は直接原告の診察を受けたことはなく、一か月に一度の割合で同患者の同表の診療月欄記載の期間を含む期間、自己の属する会社の従業員に依頼して原告から慢性肝炎に対する投薬を受けていたことがそれぞれ認められ、右認定に反する<証拠>は、前掲各証拠及び次に認定する事情に照らして信用することができず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。すなわち、成立に争いのない甲第二号証(原告作成の宮田恵子に対する診療録)記載の傷病名と前顕乙第二七号証(同人に関する診療報酬明細書)のそれとを対比すると、昭和五四年一月分(診療録では、「頸腕症候群」、診療報酬明細書では、「坐骨神経痛」、以下同様)、同年二月分(「頸痛、頭痛」、「坐骨神経痛」)、同年三月分(「歯痛」、「歯痛」)、同年四月分(「口内炎」、「気管支炎」)、同年五月分(「口内炎」、「気管支炎」)、同年一二月分(「口内炎」、「気管支炎」)となつており、両者の傷病名は、同年三月分を除いて、著しくそごしていることが認められるのであつて、右のような杜撰な医療事務がなされているのでは、原告が右宮田を診察して投薬し、それに基づいて保険診療報酬を請求したのかどうかについて多大の疑義を抱かざるを得ない。また、成立に争いのない甲第一五号証(原告作成の久保田勝治に関する診療録)記載の傷病名と前顕乙第四一号証(同人に関する診療報酬明細書)とを対比すると、昭和五四年一月から同五五年一一月までの間、前者には、「むねやけ、食欲不振、心窩部痛、胃痛」等の記載があり、後者の記載は殆んどが「慢性肝炎」であり、僅かに「気管支炎」(昭和五四年五月分)、「慢性胃炎、気管支炎」(同年九月分)、「慢性胃炎」(同年一〇月分、昭和五五年七月分)の記載がみられるところ、慢性肝炎の治療をするに当つて、原告は約二年間右久保田に対し血液検査等は一回もしていないことが右甲第一五号証及び原告本人の供述によつて認められるのであつて、これまた、この種疾病に対する治療方法として首肯し難いところであり、原告が右久保田を診察して投薬し、それに基づいて診療報酬を請求したのかどうかについて多大の疑問を抱かざるを得ないのである。

(2) 右認定の事実によれば、右宮田及び久保田両名に対する投薬は無診察投薬に該当し、したがつて、保険診療とは認められない。

それゆえ、被告が右両名に対する診療報酬として原告に支払い、原告が受領して利得した金員は法律上の原因を欠くものというべきである。

7  初診料請求の当否について

(一)  原告が、本件患者のうち酒井絵美子に対し、昭和五五年一月八日「顔面発赤」につき診療をし、同月二五日「顔面発赤」に併せて「臀部びらん」につき診療したこと、原告は右「臀部びらん」の診療について初診料の請求をし、被告はそれを支払つたこと、酒井絵美子の「臀部びらん」についての初診料と再診料との差額が金八二六円であることについては、いずれも当事者間に争いがない。

(二)  ところで、成立に争いのない甲第一九号証(点数表の解釈乙表編)によれば、「一傷病の診療継続中に他の傷病が発生して初診を行つた場合は、それらの傷病にかかる初診料は併せて一回とし、第一回の初診のときに算定する。」旨の行政上の運用がされていることが認められるところ(右の運用に特に不合理な点は見当らない。)、被告は、右二回の「顔面発赤」の診療は継続する「顔面発赤」の診療である旨主張し、原告は、一回目の診療で酒井絵美子の「顔面発赤」は一旦治癒したが、後に新たに「顔面発赤」と「臀部びらん」に罹患したため二度目の診療をしたものであつて、二度の「顔面発赤」への診療は継続していたものでないと主張するので、この点について検討する。

(三)  <証拠>を総合すれば、酒井絵美子の「顔面発赤」の二度にわたる診療は中一六日を置いたのみでなされていること、原告は被告のした本件監査の際初診一回は再診の誤りであることを自認していることが認められ、右認定に反する証拠はない。右によれば、右酒井の「顔面発赤」は昭和五五年一月八日から同年同月二五日まで治癒しておらず、治療継続中と推認するのが相当であるから、この点に関する原告の主張は採用することができない。

(四)  そうだとすれば、昭和五五年一月分の右酒井に対する診療報酬請求のうち、初診料一回分は、再診料一回分の範囲内でしか認められないものであり、被告が支払つた金額から再診料一回分を控除した金八二六円は原告が法律上の原因なくして利得した金員にあたるというべきである。

8  以上によれば、原告主張の診療報酬請求権の残金一七九万〇〇六六円のうち金一七七万二三四六円は、被告が原告に対して有する同額の不当利得返還請求権を自働債権として相殺の意思表示をしたことにより、遅くとも昭和五六年二月分の報酬支払期である同年四月末日をもつて消滅したというべきであるから、被告の相殺の抗弁は原告の診療報酬請求権の残金一七九万〇〇六六円のうち金一七七万二三四六円を消滅させる限度で理由がある。

三よつて、原告の本訴請求は、そのうち、被告に対し金一万七七二〇円の支払とこれに対する履行期の後である昭和五七年四月一六日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度では理由があるから認容し、その余の部分は失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九二条但書を適用して(なお、本件においては、事案の性質上勝訴部分につき仮執行宣言を付するのは相当でない。)、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官糟谷忠男 裁判官平林慶一 裁判官樋口裕晃)

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